昭和五十六年一月九日 朝の御理解


御理解第三十七節
「生きておる間は修業中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。」


 昨夜は新春合楽の宴と銘打っての、何んと言うでしょうか、福引会と言うでしょうか、やっぱりあれは一つのおみくじですね。神様のお心を赤裸々に一人一人に伝えて下さる、もう恒例になりましたから皆さんが毎年適確に、その信心の指針といったようなものを、まあ受けられます。
 まあ本当に拍手喝采の中にそれぞれ本当にまあ、こう、身が震うような思いがする、まぁ一時(いっとき)でしたけれども、どの方のくじを聞きましても見ましても修業を求めてないくじは一本もなかったようですね。
 もう、この人はお年寄りだからというようなことはない。もう、それこそ一生が修業と仰せられるように、やはり去年の教えを頂いて、それを指針にまあ一年間を過ごさせて頂いて、なら今年は楽なと、もう修業はせんでもよいぞといったようなものは一本もなかった。みんな次の修業に又させてもらわなければおれないような感じのくじばっかりでした。
 私の方の長男の嫁が頂いとりました。「真楽」とか。私は字は見ませんでしたけれども、真の楽という事だと、こう思うです。まあ真の楽といや極楽とか合楽で言われる合楽とか言うものでございましょうけれども、ただ安気安穏で楽がでけるというのではない。
 真の楽というのは、いうならば信心の喜びを感じさせて頂く所の楽でなからなければならない。どういう中にでも合掌出来る、どういう中にでもお礼が言えれる楽でなからなければならない。それを、私は、まあ真楽と思うですけれども、真楽を求める以上、確かに一生が修業です。その修業を怠っては真楽には触れる事は出来ません。ねえ、今晩の福引きに、どうぞ神乍らの又くじを引き当てさせて頂くようにというお願いは沢山ありました。ところが去年一年、去年はこういうくじを引かせて頂いて、一年間これに取り組ませて頂きまして有難うございましたと言うてお礼のお届けのあった方は五人位でした。皆さん、どうだったでしょうか。その五人の人はどの人を言うても本気でその事に取り組んでおる人達ばっかりでした。そして、なら今度の又くじに引き当てたのは、もうそれこそ私がそれを聞いとって拍手喝采せずにはおれないような、やっぱりくじを引き当てております。又、今年もこの人はこんなら修業に取り組むだろうと思うて、それこそ一年一年有難うなっていく段取りの修業を神様がちゃんと求めておられます。
 もう本当に、ただそん時だけ良いものを引き当てたとか、良い御教えを頂いたとかじゃなくて、やはりこれを、やはり修業の芯ともさせて頂いて、そして一年間この御教えで私どもの一年間を支えて頂いた。勿論こうやって日々御理解を頂くのは、その芯にしておる御教えを本当なものにする事の為の日々の御理解である。そして一年間この御教えをもっておかげを頂かせてもろうたというお礼が出来て、そして今年も又次の修業を願わせて頂く。
 もう本当に、もういつの場合でもそうですけれども、演出をしたように素晴らしいくじを皆さんは引き当てられました。何か大変難しい分からないものもありましょうけれども、よくよく自分の胸に手を置いて考えてみてご覧なさい。同じ例は、私、合楽理念の何というのでしたか、その打たれておる番号ででも違うのです。ですから、ようくそれを納得させてもらい分からせてもらって、そして本気でいうならば、あれは神様の一人一人に求め給うお心なのですから、それを体しておかげを頂く。もう一つでもただ真楽というから、本当に極楽のようなおかげというようなものではなくて、真楽とは、所謂、真の楽とは、信心のいうならば教えに基づいた生き方、いつも修業。有難い修業を心に頂いての真楽であります。その真楽を願い、真楽を求めての修業であります。
 もう、それこそ学者が年を取っても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞいと言われるように、金光様の御信心は終生その修業に取り組ませて頂くのです。だから取り組ませて頂くその修業、その事に対してお礼を申し上げさせてもらう。まあ一年一年、そしてこれからも続く事でしょうが、本当にこの教えで一年間をいうならば生き方の芯にしておかげを頂いてきたという実感があれば、それこそ本年もこの修業でおかげ頂いたから、又去年もこれでおかげ頂いたから今年もどうぞというようなお礼、そして願いというものがあって、そして神様が求められと思われる、それに本気で取り組むというおかげを頂きたいと思う。
 金光様の信心は一生が修業。今年だん楽になろうといったようなものでなくて、ただ楽というのは真楽を求めてのいうならば信心であり、修業であるという事です。一生が修業、だから去年よりも今年の修業は楽な修業というのではなくて尊い修業でありたいと思うですね。どうぞ。